旅に求めるものは、人によって実にさまざまだ。
静かな場所で日々の喧騒から離れ、自然の中で心を解きほぐしたい人もいれば、見たことのない景色を求めて、もっとアクティブに旅を楽しみたい人もいる。
そんな「癒し」と「冒険」、一見相反する2つの欲望を、わずか2日間で満たしてしまう場所がある。
それが、福島県・猪苗代の奥地に佇む「沼尻高原ロッジ」と、他にはない最上級のアクティブ体験ができる「エクストリーム温泉」だ。
沼尻高原ロッジは、森の中にひっそりと建つ“別荘”のような宿。
ここでは日々の喧騒も時間の慌ただしさもない、ただ自然と調和した時間が流れる。窓の外に広がる草原や森の景色に身を委ねていると、都会の時間感覚がゆっくりとほどけていく。
一方、翌日に待っているのは、山を歩き、谷を下り、源泉が滔々と流れる野天風呂に身を沈める――そんな心震えるような冒険だ。観光地では決して味わえない、自然の中に己の身を置いて体験する“本物の旅”がそこにある。
癒しと冒険、静と動。
その両方を高い次元で楽しめる場所が、沼尻にはある。
森の中の別荘にチェックイン

福島・猪苗代湖のあたりは、もともと静かで穏やかな空気が流れる場所だ。
しかし車をさらに奥へと進めていくと、風景はゆっくりと姿を変えていく。街並みが途切れ、森の中を抜けると、突然視界がぱっと開けた。まるで森の中にぽっかりと浮かぶ草原――そんな空間が目の前に広がる。
その一角に、ひっそりと佇む一軒の建物。それが「沼尻高原ロッジ」だ。
周囲には民家も商店もなく、開放的で穏やかな空気が流れている。
どこかヨーロッパの高原を思わせるような雰囲気だ。
このロッジには、ちょっと特別な物語がある。
かつてこの建物は、女性として世界で初めてエベレスト登頂に成功した登山家・田部井淳子氏が愛し、実際に別荘として使っていた場所だという。彼女は生涯を通してこの沼尻の自然をこよなく愛し、ここを拠点に数々の山を歩いたそうだ。その思いを引き継ぎ、現在は老舗旅館「大川荘」がこの建物を継承・リニューアル。今では一般の旅行者も宿泊できる特別なロッジとして生まれ変わっている。
玄関をくぐると、柔らかな笑顔のスタッフが迎えてくれた。
初めて訪れる場所なのに、どこか懐かしさのような安心感を覚える。
館内は木を基調とした上品なデザインで、自然と調和した落ち着きのある空気に包まれている。モダンな設備を備えながらも、温もりが感じられる心地よい空間だった。
①ラウンジと客室──森と調和するくつろぎの時間

館内に足を踏み入れてまず心を奪われたのは、ロビー奥、2階にあるラウンジだ。
登山家ゆかりの展示や書籍が並び、木のぬくもりに包まれた空間には、穏やかな時間が静かに流れている。
ここでは、コーヒーやワイン、ウイスキー、地域の銘菓などを無料で楽しめるフリードリンクが用意されており、窓際のソファに腰を下ろせば、高原の景色とともにゆったりとしたひとときを過ごせる。

客室もまた、このロッジの魅力を語る上で欠かせない存在だ。
白を基調としたホテルとも、趣のある古民家とも異なり、木の温もりとモダンなデザインが絶妙に融合した空間は、まるで雪山の別荘に招かれたかのようなワクワク感に満ちている。

部屋は広々としていて、窓の外に広がる高原の風景がそのまま一体となり、開放感が抜群だ。
客室タイプは半露天風呂付「スイートルーム」や広々としたツインルーム「特別室」などさまざまで、人数や滞在スタイルに応じて選べる。
自然と視線は窓の外へ向かい、刻々と移ろう光や風景に包まれると、まるで森と自分が溶け合うような心地よさが広がっていく。
②食と温泉──“旅館”のような心を味わう時間
日本の旅で心に残るものといえば、やはり「食」と「温泉」だろう。
沼尻高原ロッジの夕食は、福島や東北の旬の恵みを丁寧に引き出した、和のコース料理。
一皿一皿に自然への敬意と生産者への信頼が込められていて、どの料理も印象的だった。なかでも特に心に残っている三品を紹介したい。
■ 夕食──東北の旬が詰まった和のコース

まず最初に運ばれたのが、
「猪苗代湖産ひし茶美味 猪苗代舞茸 会津生木耳 会津人参 菊芋の薬膳スープ 土瓶蒸し仕立て」。
これがとんでもなく美味しい。
急須からまずはスープだけを注ぎ、一口飲むと、ひし茶と舞茸の香りがふわりと鼻を抜け、体の芯までじんわり温まる。出汁には会津の干し貝柱とひし茶を合わせており、滋味深く、優しいのに奥行きのある味わいだった。
料理長は「食事の最初に温かいものを出すのは、胃を整えて体を“食”に向けるためなんです」と話していた。
ひと口目から土地の空気と素材の力を感じる、印象的な幕開けだった。

そして「三陸活帆立貝 夏ひらめ」。
提供直前に包丁を入れることで酸化を最小限に抑え、魚介が持つ甘みと透明感を最大限に引き出している。
「貝や魚は、生きているうちに切るのが一番甘い。時間が経つほど臭みが出てしまうんです」と料理長。
その言葉通り、ぷりっと弾む帆立と、柔らかなひらめの旨味が口の中でふわっと広がる。
濃口醤油ではなく、昆布出汁で割った淡口醤油を添えることで、海の香りが損なわれることなく引き立っていた。
海と料理人、素材と技の呼吸がぴたりと合った、清らかな一皿だった。

最後に「三陸生うに羅臼昆布水浸し 会津地鶏卵の玉地蒸し」。
うにが苦手な人も少なくない。実は私自身、日本人でありながらうにが得意ではないタイプだ。
しかしこれを口にした瞬間、その印象が一変した。
臭みは一切なく、まるでバターのように濃厚でクリーミー。
「昆布水と地鶏卵の優しい旨味で、うにの味を包み込みたい」と料理長。
その言葉通り、海と大地の旨味が静かに溶け合い、余韻が長く続く一皿だった。
■ 料理長が紡ぐ、土地と旬を生かす一皿の哲学
コースはこのほかにも、

・夏あんこうの山塩焼き浸し
・福島県産牛肉のロッジ風煮込みシチュー
・自家製ロースハムのしゃぶしゃぶ鍋
・とうもろこしの炊き込みご飯
など、季節の滋味が次々と登場する。どの皿にも派手な演出はなく、食材そのものの力と、それを引き出す丁寧な手仕事が宿っているのが印象的だった。

料理長は宮城県出身。地元の生産者や漁師とのつながりを何よりも大切にしているという。
「同じ野菜でも、作る人によって味が違うんです。畑がきれいな人は、食材も生き生きしてる。愛情を持って育てられた食材は、料理の味も変わるんですよ。」
鍋に使われるセリは、宮城で“セリ鍋”が有名になる前から付き合いのある無農薬農家のもの。魚介は、後輩の漁師がその日必要な分だけ直接届けてくれる。この信頼が、この食卓の根幹にあるのだと感じた。
さらに印象的だったのは、米と水へのこだわりだ。
沼尻では、猪苗代の契約農家が今では珍しい「ふさがけ(天日干し)」で仕上げた米を使用。手間を惜しまず自然乾燥させることで、甘みと香りが格段に引き立つという。
トウモロコシご飯では、甘い白・もちもちの赤・旨味の黄色、3種をブレンドし、その日の天候と食べ終える時間に合わせて炊き上げる。
地下水は出汁との相性が良く、野菜や魚の味を引き立てる理想的な水なのだそうだ。
「福島や東北の食材は、素材そのままでも味が強い。だからこそ、過剰な味付けはしません。」

料理の根底にあるのは、土地と季節に寄り添うという姿勢だ。
標高のあるこの地では、関東とは季節の進み方が異なり、お盆過ぎが最もトウモロコシの甘い時期になる。朝晩の冷え込みが野菜の糖度を引き出し、「ここでしか味わえない旬」を生み出す。
「街でやるのもいいけれど、ここには“変化”があるんです。
今日寒いな、そろそろ秋だなって、毎日感じられる。
その感覚があるから、料理も季節に敏感でいられる。」
料理長は敷地内で小さな畑も手がけ、いずれは「お客様が自分で収穫した野菜を朝食に出す」体験も実現したいと話す。
自然とともに生き、旬の移ろいを皿にのせる――。
この夕食は、ただの食事ではなく、この土地と人の営みそのものをいただく時間だった。
■温泉──森と風に包まれる癒やし

食事の余韻を胸に、向かったのは館内の温泉。
ここで引かれているのは、約400年の歴史を持つ「沼尻元湯」から湧き出る源泉かけ流しの湯だ。標高1250mという高地から湧く強酸性硫黄泉は、pH2.1とレモン並みの酸度を誇る“薬湯”で、古くから美容や健康に効果があるとされてきた。肌にまとわりつくような湯は、浸かるとキュッと引き締まる感覚があり、湯上がりには驚くほどなめらかな肌になる。

内湯は木の香りに包まれた落ち着いた雰囲気で、露天風呂では高原の澄んだ空気と心地よい風を感じながら、自然と一体になるような時間を過ごせる。
夜には湯けむり越しに満天の星が広がり、耳を澄ますと虫の声と風の音だけが響く。
目を閉じれば、時間がゆっくりとほどけていくようで、心身ともに芯から癒やされるひとときだった。
③キャンプファイヤー──静寂の中で自然と向き合う夜

夜はロッジ庭でキャンプファイヤーなんてするのはどうだろう。
街灯ひとつない漆黒の空の下、頼れるのは焚き火の炎だけ。
パチパチと薪がはぜる音とともに、夜空には無数の星が瞬き始める。周囲は驚くほど静かで、聞こえるのは風の音と虫の声、そして遠くの山々の静けさだけだ。
椅子に腰を下ろし、炎をじっと見つめていると、心の奥に静けさが広がっていく。日常で焚き火の炎をただ眺める機会はなかなかないからこそ、このひとときは、ふと自分や旅のことを見つめ直す時間になる。言葉はなくても、炎と夜空が語りかけてくるような、不思議な感覚だ。
炎を囲むという、どこか原始的で本能的な行為は、人と自然、人と人との距離を静かに近づけてくれる。時間がゆっくりと溶けていく中で、日常では味わえない“自然と向き合う感覚”が心に染み込んでいった。
エクストリーム温泉体験──“静”から“冒険”へと切り替わる一日

翌朝、ロッジのすぐ隣にあるアウトドア拠点「Nowhere」に集合した。
ここは、もともと東北最古のスキー場・沼尻スキー場のレストハウスをリノベーションしたカフェ兼アクティビティセンターで、沼尻の大自然を舞台とした様々な体験の出発点となる場所だ。

木造の建物の中に入ると、アウトドアギアが整然と並び、壁には地図やトレイルの案内が掲示されている。ここでは、トレッキング用の靴やポールなどのレンタルも可能で、飲み物や軽食も購入できる。
静かなロッジの滞在から一転、これから始まる“冒険”の気配に胸が高鳴る。
この日の目的はただ一つ –「エクストリーム温泉」だ。
標高1300m地点にある沼尻温泉の源泉「沼尻元湯」まで、約1時間のトレッキングをして、野生の温泉に浸かるという特別なツアーだ。水着やタオルを準備し、ガイドの説明を受けながら、一行は山へと歩き出した。
トレッキング──秘湯を目指す冒険の始まり

ロッジから少し車で山を登った場所がスタート地点だ。
ガイドさんからヘルメットを着用するよう言われ、この瞬間、まるで日常から冒険へとスイッチが切り替わるような高揚感があった。
整備された山道は歩きやすく、登山初心者でも安心して進める。木々の間を抜けながら、ガイドさんが地元の植物や地形の話をしてくれるので、歩いているだけでも自然の豊かさを実感できる。
印象的だったのは、緑色に赤い模様が入った特徴的な葉を見かけたときのこと。思わず手を伸ばしそうになった私に、ガイドさんがすかさず声をかけた。
「それ、触らないでくださいね。こすったり樹液が肌につくと、じんましんみたいなブツブツが出て、すごくかゆくなるんです」
ただ接触しただけでは大丈夫だが、擦れたり汗などで皮膚に樹液が付くと反応が出るらしい。森の中では、こうした“ちょっとした知識”が安心感にもつながる。

途中には白糸の滝や安達太良山の稜線を望むビュースポットがあり、立ち止まるたびにカメラを向けたくなる。標高が上がるにつれて空気が澄み、呼吸が深くなっていくのを感じた。
30分ほど経った頃、ふと空気の匂いが変わった。かすかに硫黄の香りが漂い始めたのだ。
さらに歩みを進めると、目の前に渓谷が開け、谷底には白い湯けむりが立ちのぼっているのが見えた。あの湯けむりの正体こそが、目的地である沼尻元湯だ。
かつてこの一帯は温泉地として栄えていたが、硫黄ガスの影響などにより旅館は姿を消し、現在はガイド付きツアーでしか立ち入ることができない秘境となっている。足元の地熱と、辺りに立ち込める湯けむりの光景に、胸の高鳴りが止まらなかった。
エクストリーム温泉

谷へと下っていくにつれて、硫黄の匂いが一層強まり、どこか地球の奥深くへ足を踏み入れていくような感覚に包まれる。
近くの岩肌からは湧水が流れ出ており、ガイドさんに勧められてひと口飲んでみると、驚くほど鉄の味がした。鉄分が豊富に含まれており、疲れすぎていると味がしないのだという。ちょうどこの良きタイミングでちょっとした健康チェックができる。
やがて目の前に広がったのは、想像をはるかに超える光景だった。
渓谷の底を、川のように温泉が滔々と流れている。脇の流れに手を入れると、60度近い熱さ。大地そのものが湯を湧かせているとしか思えない、圧倒的なスケールと迫力だった。
しかもここは、1日2組限定、さらにガイド同行のツアーでしか辿り着けない秘湯。
その名の通り、まさに「エクストリーム温泉」だ。

水着に着替え、いざ湯へ。
岩を伝い、流れの中を慎重に進む。足を踏み入れた先は、大人でも胸元までしっかりと浸かれる深さの、天然の湯船。いや、湯舟に入るというよりも、温かい川に身を預けるような不思議な感覚だった。
標高が高いため真夏でも空気はひんやりしているが、湯に身を沈めると硫黄の香りとともに熱がじんわりと体の芯まで染み込んでいく。見上げれば切り立った渓谷、遠くには連なる山々。長い年月をかけて削られた地形の中に、湯と自分だけが存在している――そんな没入感があった。

しばらく湯に浸かっていると、ガイドさんが「ひし茶」と「笹団子」を振る舞ってくれた。
ひし茶は、猪苗代湖で採れる“ひしの実”を焙煎して淹れた香ばしいお茶。ほんのり甘く、湯に浸かりながら飲むと体の芯までぽかぽかと温まる。笹団子は、笹の葉に包まれたヨモギ入りの団子にあんこが詰まった郷土菓子で、素朴な甘さが山の空気と硫黄の香りの中でふっと心をほぐしてくれる。
湯けむりに包まれながら、仲間と語らい、あるいは黙って渓谷を見つめる時間。
それは、単なる露天風呂では到底味わえない、まさに露天風呂を超えたエクストリームな温泉体験であった。
これまで全国の温泉を巡ってきた筆者にとっても、この体験は間違いなく“歴代一位”。自然と一体化するような感覚と、ここにしかない特別感が、その記憶をより強烈なものにしてくれた。

湯から上がると、名残惜しさを胸に、帰路へと足を進めた。
復路は少し険しいルートを通ったが、その分だけ眼下に広がる光景は圧巻だった。重なり合う山々と空が織りなす壮大なパノラマが。
途中、沼尻元湯と山をつなぐ鉄骨とケーブルが目に入った。これは、かつて温泉地が栄えていた頃に物資を運ぶために作られたもので、今でも荷物の運搬に使われているという。
自然の雄大さを全身で受け止めながら歩く時間は、行きとはまた違った余韻に満ちていた。

ロッジへ戻ったあとは、隣接する「Nowhere」のカフェでひと息つくこともできる。
ここでは深煎りのオリジナルコーヒーを楽しみながら、窓の外に広がる草原を眺めて過ごす人も多い。店内には、ひし茶など猪苗代のお土産もあればエクストリーム温泉限定のステッカーやTシャツなどのオリジナルグッズも並んでいる。デザインもかっこよく、旅の思い出としてぴったりだ。
静けさに包まれたロッジでの滞在と、野性味あふれる温泉での体験――
まるで正反対の2つの旅を一度に味わえる。体は心地よい疲労感に包まれ、心の奥には、確かな達成感と忘れがたい余韻が残っていた。
追加情報
- エクストリーム温泉ツアーは 5〜11月限定(積雪期は別イベント)
- トレッキングは往復約3時間、歩きやすい靴とタオル・水着を持参
- 猪苗代駅から送迎あり(事前予約推奨)
- カフェは土日祝のみ営業
- 硫黄ガスのため、ガイドなしでは立ち入り不可
沼尻高原ロッジとエクストリーム温泉は、
「静」と「動」、「癒やし」と「冒険」が見事に共存する、日本でも稀有な体験だった。
森に包まれた静かなロッジで心と体をゆるめ、翌日には山を歩き、谷を下り、野湯に身を沈める――この2つの時間がひとつの旅の中で自然に連なっているのが、この地の最大の魅力だと感じた。
ロッジでは 焚き火や星空、地元の食材を生かした食事、森に溶け込むような温泉――日本らしい趣を残しながらも、過剰な演出がない分、自然との距離がぐっと近くなる。
そして翌日は、自分の足でその自然の奥深くへと分け入る。まるでひとつの旅の中に、「穏やかな滞在」と「小さな冒険」という二つの物語が折り重なっているようだった。
温泉や自然が好きな人はもちろん、文化とアクティビティの両方を楽しみたい人にも、この場所は強くおすすめできる。アクセスの良い観光地では得られない、自然の中に己の身を置いて体験する“本物の旅”がここにはあった。
湯けむりの残り香、夜の炎、満天の星――五感に刻まれた自然の記憶を胸に、またいつかこの地を訪れたい。そう心から思える旅だった。






